2019年1月20日日曜日

アリの数を数える仕事 ゲームの需要について

ちょっと恐ろしいことを考えてしまったお話デス。


わたしはよくゲームの製作中に、「自分のつくっているゲームに需要はあるのだろうか?」とふと思って自信がなくなってしまうことがよくあります。そんな感じのお話です。


アリを数えるの楽しい。




さいきん話題になった、有野課長という方の一言。


私はこの方のことを詳しく存じ上げているわけではないのですが、ゲームプレイヤーといえばこの人!と言われるすごい人だそうです。そんな方が「アプリはやりません」とつぶやいたことで、ゲームアプリ制作者の皆さんは色々思うことがあったのではないでしょうか。

いまやスマホゲームがPCや家庭用ゲームを抑えて主流になっているのは誰もが知るところです。ゲームアプリにも面白い作品はあります!みたいな反応もたくさんあったようです。


私も最初は「影響力のある方がそんなことを言うなんて!」と、すこし残念な気持ちになりました。しかし、しかしですよ。私も目指している『ゲーム制作者』って、何をつくるべきなの?と考えてみるきっかけとなりました。




アリの数を数える仕事


ゲーム制作者って、本当に必要な存在なのでしょうか。いきなり辛らつなことを考えてしまいましたが、たとえば「アリの数を数える仕事」があるとします。


私たちは、子供の頃に夢中になってアリの巣を発見して、アリの数を数えて、アリの行方を見守って、巣に水を流し込んで、
…と色々な体験を経て、アリという存在に惹かれていきます。そして、大人になって「アリの数を数える仕事に就こう!」と決心します。でも、アリの数を数える仕事って、需要があるのでしょうか。そもそもそんな仕事は存在するのでしょうか。

想像なのですが、きっと世界のどこかにはアリの数を数える仕事は存在すると思います。アリを数えてお金を貰っている人はきっといるでしょう。でも、冷静に考えるとアリの数を数える仕事でお金が稼げるなんて思いませんよね。

そこにはおそらく需要があり、生態の研究のためだとか、アリ好きな人がお金を出してくれるとか、アリを数えると雨が降るとか、様々な理由でアリの数を数えて生活する人が存在できるのだと思います。


もう察していただけたと思うのですが、この「アリ」って「ゲーム」なんですよ。「アリを数える」って「ゲームを作る」なのです。なにが言いたいのかというと、需要の事を考えずにゲームをつくろうとする事って、めちゃめちゃやばいのでは、と思ったのです。

お金を払ってくれる人のことを考えずに、アリの数を数えたりは普通はしません。ところがネット等で、アリの数を数える仕事が結構存在していると知ってしまいます。「アリの数を数える事」が当然のように仕事であると思い込んでしまいます。需要があるから仕事になる、というふうには考えないのです。


趣味でつくるだけならまだしも、ゲーム制作を仕事にしようとするのであれば、最初に考えるべきなのは需要の部分、つまりユーザーの事でなければならないんじゃないかなーって。でも私たちって、「こんなゲームが作りたい!」とか、「ゲーム制作を仕事にしたい!」とか、そんなことばっかりじゃないですか。(まさかわたしだけじゃないよね…?)

「こういうゲームにしよう」「こういう仕様にしよう」とは考えても、ユーザーがどういうゲームを欲しているか、ということはあまり深く考えてなかったなーと思ったので、その部分をよく掘り下げて考えてみました。




体験を作らずにゲームを作ろうとしてしまう


最近ゲームを作っていてよく思うことは、「ゲーム」という名前に引きずられすぎているなーということ。ゲームって、昔から一貫して「ルールのある体験」のことを言うと思うんですよ。だから私の中ではスマホのガチャゲーも立派なゲームですし、いわゆるゲームっぽくある必要もないのです。体験であればそれでいい。実際そこに気がついているFGOなどのガチャゲーは業界で勝利を収めていますよね。


別な視点でいえばハイパーカジュアルなどのジャンルはもはやゲームと呼べるのかすら謎で、そこには思考も戦略も無いものも多く、ただスマホをさわった感覚がなんとなく楽しい、くらいのものが一般的です。

しかしそれらがいわゆる「ゲームっぽいゲーム」を抑えてゲームアプリのDL数ランキングの上位に名を連ねています。


その点に気がつかず「ゲーム」を作ろうと考えてしまうことが、やばい。外観しか見えていないので、中身に面白さがない。「触っていて楽しい」「考えていて楽しい」がゲームの根幹であって、「ビデオゲームが楽しい」は正解ではないんです。


それなのに、「ビデオゲームを作ろう!」と言うところから企画がスタートしてしまう。ゲームとはこういうものだ、という先入観があるから、キャラを宝くじのように当てる体験を売ろう、とは考えもしません。それどころか「そんなのはゲームじゃない!」などという始末です。

大切なのは需要、つまり遊んでくれるユーザーさんに「体験」を提供することこそが「ゲーム制作」であるべきだと思うのですよ。ゲーム制作にいくらコストをかけたとか、時間をかけて作ったとか、立派な見た目とかキャラの多さとか、何十時間遊べますとか、そこじゃないのです。ユーザーさんは「体験」にお金を払っているんです。少なくとも私はそう。


その「体験」こそがアイディアの部分で、企画に力を入れるところだと思うのですが、どうにも先入観のせいで外側をどう装飾しようかというところから考えてしまいがちです。体験の部分にこそ価値があるのですが、外から作ると中身は身動きが取れなくなってしまいます。

作っているうちに「あれ…?もしかしてこのゲーム、面白くないのでは…?」と思ってしまうのは、おそらくこれが原因だと思います。中から作ればコンセプトを見失わないのにね。今まさにその状況なので泣いてます。たすけて。。。




どうやってゲームを作ればよいのか


大切なのは自分の中だけでゲームを完結させないこと。ユーザーが遊んでいるゲーム画面を想像するのではなく、遊んでいるユーザーの感情を想像してゲームを作るのが大事なのかなと私は思います。

実際にプレイ中のユーザーを想像するのはとても難しいので、簡単なモックアップを作った状態ですぐ誰かに遊んでもらうのが一番はやそうです。そう考えると試遊会などのリアルイベントはとても重要と言えそう。家族とか友達とか、なんなら通行人をつかまえてプレイしてもらったり。


「寝食忘れて遊んでしまう」とか、「友達に勧めてしまう」とか、そういったユーザーの感情を想像してゲームを作れたらもう言うことはないなーと思います。簡単に言いますけどね、それが出来たら苦労はないんですよ。自分で言って自分で言い訳してる…。

ゲームも敵キャラの動きを予想してプレイするじゃないですか。それと同じで、ユーザーのムーブを予想してゲームを作ればいいんですよ。ゲーム画面ではなくて、リアルの動きや感情を予想するのです。ゲームを作るゲームなどとよく言いますが、プレイヤーの動きを想像するという技をつかえば、少しは攻略しやすいかもしれないぞ、と。


そうして作ったものを試しに遊んでもらって、答えあわせをします。反応を見て、いけそうかも?と思ったら、作りこんで完成を目指す。思ったのとちがう答えが返ってきたら、弄ったり、作り直したりする。

この繰り返しがゲーム制作なのでは?とおもったので、こんなことを長々と書いてしまいました。一部の天才さんは試遊などせずに一人でも正解にたどり着けたりしますが、凡人のわたしには無理そうなので…よく考えたら当たり前のことなんですけどね。

このことを踏まえて、「自分が作りたいゲームを作った上でお金も欲しい!」という考えは危険かなって。道端の雑草を数えてお金が欲しい!という我が侭は通らないんじゃないかなと。…ごめんなさい、数時間前まで言ってました。明日も言うかも…。



有野課長さんがどうだという話から大分それてしまいましたが、今回の記事がすこしでも皆さまのゲーム制作のヒントとなったら私も嬉しいです。とどのつまり言いたい事はただひとつ、面白いゲームの波を、わたしたちで作っていきましょう、ということ。

個人ゲーム開発者にはなかなか厳しそうな昨今ですが、荒波にまけずにがんばりましょー。くじけぬ心でトライアンドエラー、ゲームと一緒です。さあ、アリの数を数えますよー!



おしまい。
 

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